「「長男の宿命たい」。おやじから言われとったからね。この辺りは、みんな商売しとって、長男は継いどったから」。津屋崎人形の人形師、原田誠さんは家業を継いだ時のことを思い返していました。
江戸時代から200年続く「津屋崎人形」(※1)。津屋崎千軒内に工房が2軒残っており、現在も人形作りが行われています。その内の一軒、「筑前津屋崎人形巧房」の扉を開けると、七代目の原田誠さんが来年の干支、馬の人形の絵付けを黙々と進めていました。
誠さんが人形作りを始めたのは、21歳の時。父、活男さんの仕事を見様見真似で習得していきました。「おやじが教えてくれることはなかったね」。背中で教えられ、全身で学ぶ。口承ではないからこそ、代々引き継がれてきたものがあるのかもしれません。親子で人形作りを行っていましたが、人形作りの最後の行程である面相と模様の絵付けは、20年経っても誠さんが施すことは許されていませんでした。
誠さんが45歳の時、活男さんが急死。師の存在がない中で人形を作り、初めての面相と模様の絵付けを行いました。最初は、活男さんと比較されることや得意先からの評判を恐れましたが、恐怖心に打ち勝ち、人形師として歩み始めました。土人形やひな市で有名な長野県中野で作品展を行ったり、ここ最近では、フランスで出版された本『MiYaGe』で「もま笛」(※2)が紹介されたりしました。伝統工芸品である津屋崎人形が、新しい視点で注目されつつあります。
「あっという間やったよ」。人形を作り始めてからの40年は、流星のごとく過ぎていったと語る誠さん。還暦を過ぎ、後継ぎのことも考えます。23歳になる息子さんがいますが、「宿命だ」と強要することはなく、好きなことをしてほしいと伝えます。
誠さんと息子さんが並んで仕事をする光景を目にしたいという希望は言葉にせず、「私にできることは何なのだろう」と問いながら、お店の扉を閉めました。
原田誠 (はらだ まこと)
「筑前津屋崎人形巧房」7代目。商工会会長も務める。日課は、毎朝海岸を歩くこと。貝殻を拾ったり、すれ違う人と話をすることから1日を始めている。